寿司工場

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感傷マゾとかいうのをやめろ

※まとまりのないお気持ちです

最近見かける感傷マゾとか青春マゾみたいな言葉が嫌いである。特にコロナ禍以降、世代全員が青春を失った最近、見かけるようになった言葉である。
この文章の目的は感傷マゾの説明ではないので、わからない人は適当に検索して大まかな意味合いをつかんでほしい。

僕は、人生における失敗や不幸を咀嚼したり適度に忘却すること、前を向こうとする人間の心の働きは普遍的であり、局所的な世代や文化集団が、「感傷マゾ」みたいな語彙で自虐的にあげつらうのはあんまり意味がないように感じる。意味がないというか、誰も幸せにしない、と思っている。

そもそも「マゾヒズム」という言葉はあまりに露悪的で不正確だ。僕たちが不幸なことや失敗を受け入れた後に生まれるポジティブな感情は、苦痛や悲しみが倒錯して生まれた生理的な快感とは根本的に違う。原因と結果がこじれているからといって、その内側の論理を無視しないでほしい。

人間が人間でいられる一つの証明として、「失う」ことができるというのが最近の僕の考えだ。
失うということには二種類ある。被災によって家を失うといったように、もともと持っていたものを失う。あるいは進路の選択によって子供のころの夢をあきらめたといったような可能性の喪失。この二つである。
(特に後者の意味において)適度に失うことができる我々人間は、同じように適度に得ることができるのである。確率を信じ、常に分岐する選択の中にありえたかもしれない未来を想像する。過去にとらわれた後ろ向きの考えに見えるが、その思考はメタ認知の次元で前を向いている。

志望校合格、恋愛成就、ビジネスでの成功、抽選での当選等々、人生において一般的に「得る」ことができるものはたくさんある。しかし、僕たちはこれらを同時に「失う」可能性を持っている。そして僕は、失うことも得ることも、同じくらい尊いことだと思っている。

だから、失うことがいずれ得ることにつながるのは当然だ。だから、それをマゾヒスト的だと決めつけないでほしい。しょうもないラベリングや自虐をしないでほしい。